吉備津探訪① 妹尾兼康公と十二ヶ郷用水

“祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり……”という冒頭が有名な『平家物語』

この平家物語に登場する人物で、岡山県南部の農業活性化にとっても重要な役割を果たした人がいます。

その人の名は【妹尾兼康(せのおかねやす)】

今回は【妹尾兼康】と、彼が中心的な役割を担ったと言われる用水の大改修について、ぼちぼちとお伝えしていきます。

妹尾兼康公という人物

まずは妹尾兼康公の基本的な情報から。

“妹尾 兼康(せのお かねやす)
出生(説):保安4年(1123年)
没年(説):寿永2年閏10月12日(1183年11月28日)
平安時代末期の平氏方の武将。”
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/妹尾兼康

基本的に、現在の通説としてはWikipediaに記載されている出生年と没年が通説だそうで、ちょうど平安末期に人生があった人ということで間違いなさそうです。

一説では1126年(大治元年)に生まれたという説もあるそうですが、今回は保安4年説をとりたいと思います。

彼は年若いうちから平氏に仕えていました。

このため、冒頭にご紹介した『平家物語』だけでなく、平氏の隆盛がよくわかる『保元物語』や『平治物語』にもその名が登場します(もちろん平氏方の侍として名が記されています)。

歴史上で有名な出来事で言うと、妹尾兼康公は寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いにも参戦していたそうです。

そこでは旭将軍こと木曽義仲(源義仲)軍と熾烈な戦いを繰り広げますが破れてしまい、捕虜となります。

しかし捕虜である間に監視役だった倉光次郎成氏を殺害し、逃亡。

その後2000人もの兵を集めながら反義仲の一群を作ります。

ただやはりかき集めた一群では勢いのある義仲軍には勝てず、さらに敗走を続けることになります。

敗走のさなか、嫡子である妹尾宗康を救助すべく道を引き返しますが、備中国板倉の辺りで討ち取られたそうです。

この備中国板倉というのが、現在の岡山市北区にある“吉備津”の北部なんですね。

この“板倉(いたくら)”という地名は、現在も地元の人は日常で使っていて、吉備津神社近辺の“宮内(みやうち)”と同様に日常会話でも普通に出てきます(特に年配の人は良く使いますね)。

敗走後に打倒義仲を掲げて2000名もの兵士と起こした戦は“福隆寺縄手の戦い”とも言われていて、敵の大将であった源義仲から「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人當千の兵ともいふべけれ」と称えられたとか。

ちなみに妹尾兼康公の最期は『源平盛衰記』の巻第三十三「兼康板蔵城戦ひの事」にかなり詳細に、そしてドラマティカルに描かれています。

最期の場面は漫画にしてみましたので、もしよければご覧ください(現在鋭意制作中……今しばらくお待ちください)。

妹尾兼康公と十二ヶ郷用水

さて、一般的には『平家物語』や『源平盛衰記』など歴史物語で有名な妹尾兼康公なんですが、筆者には武将というより地域の農業をよりよくしたお侍さんという認識の方が強いです。

というのも、筆者が通っていた“鯉山小学校(りざんしょうがっこう)”には、30年ほど前“ふるさと探検”という地域の歴史を学習する総合学習枠があったんですね。

この“ふるさと探検”では1年生~6年生までが縦割り班で分かれて、1年度に1つのテーマについて調べて発表したり、テーマに縁深い場所を訪ねていくということをしていました。

鯉山小学校のある吉備津には、歴史的に有名な人の出生地や(今では全国的に有名な)昔話縁の伝説が結構たくさんあって年度ごとのテーマにはことかかない感じでした。

ただ大きなテーマは確か6つで、この6つのテーマを押さえれば吉備津の大きな歴史の流れがわかるというように工夫されていたと記憶しています。

そして、この6つのテーマの中に“妹尾兼康と十二ヶ郷用水”というものがあったんですね。

筆者が妹尾兼康公を知ったのは、高校で平家物語などを詳しく学習する前だったので、どうしても妹尾兼康公は平家の武将というより、農業活性化に貢献したなんかスゴイ人、という感じが強いのです 笑。

十二ヶ郷用水とは

吉備津と今では言われていますが、先ほども登場したように、吉備津は北部が板倉、吉備津神社周辺が宮内、というように、昔はいくつかの村に分かれていました。

大きな川の氾濫などがある土地でもなく、だからといって大変な水不足が起こりやすい土地でもなかったため、吉備津周辺は昔からそこそこ農業が盛んだったようです。

ただ、昔は現在のように十分に水路が整えられているわけでもありませんでしたので、田んぼに水を引くことについて、村の間でしばしば諍いが起こっていたとのこと。

こうしたトラブルを防ぐこと、そして各郷・各村に水が届くようにすることを目指して整備されたのが、今回ご紹介している“十二ヶ郷用水”です。

この用水が最初に作られたのは平安初期だそうですが、12に及ぶ郷と68もの村に届くように大改修をしたのが妹尾兼康公と言われています(用水のカバーしていた範囲は約5000haにも及ぶのだとか!)。

また十二ヶ郷用水は岡山県の3大河川の1つである“高梁川”から取水されていて、現在この用水の取り入り口は“湛井堰”として大きなコンクリートになっていますが、現役で頑張っています!!

そして妹尾兼康公が大改修した十二ヶ郷用水で、その恩恵にあずかれた68村の1つに、板倉村や宮内村も入っていたんですね!!

妹尾兼康公を訪ねて

吉備津にとって色々と縁のある妹尾兼康公ですが、彼について興味をもってくださった方にぜひ足を運んでいただきたいのは、鯉山小学校の隣りにある、妹尾兼康公の眠る場所でしょうか。

板倉辺りで討ち敗れた妹尾兼康公は、その後郎従の陶山道勝氏によって弔われ、埋葬されたそうです。

兼康公が埋葬された場所には“道勝寺”というお寺が建立されましたが、このお寺は明治元年に廃寺になりました。

跡地が現在の鯉山小学校なのですが、兼康公のお墓は小学校の隣地に移設され、そこに今も兼康公は眠っておられるそうです。

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